「ノルウェイの森」を再読した −井戸の深さとか『総合小説』とか−


最近、「ノルウェイの森」を久しぶりに再読している。

人生の節目とか、ちょっと『道標がほしいな』と思った時はいつも村上春樹を読むのだけれど、「ノルウェイの森」を手にしたのは久しぶりだった。だいたいは「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の羊男シリーズか「ねじまき鳥クロニクル」が多い。個人的No.1小説は、何百と読んできても(そしておそらく死ぬまで)「ノルウェイの森」には違いないんだけれど。

ということで、今日は「ノルウェイの森」を読んで思ったことを書く。でも村上春樹の小説に関して文章にまとめるのはとても難しい。まとめたり、うまく伝えることは、僕の拙い筆力では到底及ばない。
今回はすっぱりと諦めて書きたいことを書くので、もしかしたら何言ってるか分からないかもしれません(笑)

村上春樹の小説は全部読んできたが、「ノルウェイの森」は何というか、他と違う特別感がある。
この小説だけ、立っているステージがちょっと違う気がする。
この物語を書いた時の作者の集中力、『自我の井戸の中』へ入る深度は、相当深かったんじゃないかな、そういう「研ぎ澄まされている」感じ、「脇目を振らずに核心を突いてくる」感じをひしひしと感じる。
逆に研ぎ澄まされすぎて、準備ができていないと(心が柔らかくなっていないと)トゲが途中で折れて心の中に刺さりっぱなしになったような消化不良になる。
うまく説明できないけど。


でも作者本人はこの作品にそれほどの思い入れを持っていないみたいだから、もしかしたらこれは、偶然の結果成し得たのかもしれない。ある意味まだ未熟だった作者が、小説の書き方を掴みかけ、かつ自身の方向性を固める前の短い時期、世間と離れたイタリア(だっけ?)で物語に没頭できた、という条件がピタリと嵌まったのかもしれない。
全部想像だけど。

最近は、仕事の昼休みに近くの喫茶店に入って30分だけ読む、という読み方を繰り返している。
この読み方だと、あんまり気合いを入れて読むような本は向いていない。集中しはじめたころには時間が来てしまうので。かといって軽すぎて何も残らないものを読んでも仕方がない。
そういう意味でも「ノルウェイの森」はピッタリだった。


10代のころに比べるとずいぶんと集中力も落ちたと感じるこの頃だけど、「ノルウェイの森」は数秒でスッと入っていける。そして本から目をあげたとき、ちょっとだけ世界が変わったような、まるでパラレルワールドにいつの間にか移動したかのような感覚になる。
同時に、自分の奥にあった”コリッ”としたものを元の世界に置いてきたような、自分を一段導いてくれたような感覚になる。これがとても心に『効く』。
ときどき心が予想出来ない動きをする事もある。ときにとっても考え込ませることもある。あるいは作者と同じ『自我の井戸の中』に迷い込んで、現実に戻って来られない時もある。
それもまた面白い。
でもほとんどの場合はちょっと幸せな気分になっていることが多い。それは、たとえ5分でも、ほんの2ページでも。


これは何でなんだろう?とちょっと考えてみた。

もちろん根底には、言葉の選び方や文章がいいというのがある。
そういえばどこかで本人が
「ぼくは文章の『リズム』をとても大事にしています。文章は音楽と似ているんです。小刻みなリズムはもちろん、物語全体を通しての大きなリズムというものもあって、それが大事だと思うんです」
みたいなことを言っていた。(適当な引用だけど、言わんとしている事は間違っていないと思う。。。)
ぼくには全部は分からないけれど、でもなんとなく分かる。たしかに村上春樹の文章はリズムがいい。


またとくに「ノルウェイの森」に関しては、会話が多いせいもあるかもしれない。
会話をしているときは、登場人物が躍動しているとき。読者も、登場人物に同化することになる。現実にいる『作者』ではなくて物語の中の『登場人物』に同化することによって、すばやく物語の世界に入っていけるんだろう。


ノルウェイの森」に限らず初期の作品には、会話の比率が多い。
またあいまいな引用で恐縮だが、本人いわく
「ぼくは最終的には『総合小説』を書きたいと志しているんです。最初のころ、ぼくはどうしても1人称の小説しか書くことができなかった。でも1人称では『総合小説』は書けない。そこで、章によって視点を変えるなどの工夫と訓練を重ねて、最近では3人称でも書けるようになってきた。」
みたいなことをいろいろな所で言っている。
『総合小説』とはなにか、詳しくはもっと賢い方に説明を譲るが、ぼくは要するに『神の視点から書かれた小説』と認識している。すべての登場人物や物語を一番の高みから記述する。一人の人間、一つの物語ではなく、その全体を記述することでより強い力を持った小説とする。

この傾向は読んでいてよく分かる。章ごとに視点を変えるのはよくやる方法だし(「世界の終りと−」「海辺のカフカ」「1Q84」・・・)たしかにある時期を境に3人称の物語が増えた。いち読者として、村上春樹が目指している方向をリアルタイムで追えるのは幸せだし、完成された『総合小説』ができるとすれば、楽しみな事この上ない。
でもそれにともなって会話の比率が減り、「小説の強引な吸引力」のようなものが減ったのは事実なんだよなぁ。

さて、だいぶ長くなってしまった。
しかも読み返してみると、脈略が全くないなぁ。。。
でも、まだまだ書きたいことは山積なので、ここでいちど記事を切ってまた今度書きます。