脳ミソ デトックス (ひとりごとのつづき)


振り返れば、大学を何とか抜け出して(あそこはなんというか、僕の短い人生に中でもどん詰まりの「間違った」状況だったとつくづく思う)、とにかく『心機一転』社会人になって早4年。まずはこの世知辛い世の中をサバイブするために生きてきた。
まだ全然、生存競から抜け出したと安心はできないけど、この状況にもだいぶ慣れてきた。そろそろ、次のステップへ移行する時期だと思う。
4年は結構、長い。その間にぼくは何を身につけてきたんだろう?何を得たのだろう?もちろん何かは身につけてきた。4年前の自分と今の自分では、違うところもたくさんある。
でも、ここでぼくが問題だと感じているのは、「それを言語化できない」という事だ。


それだけではない。例えば人に何かを伝えたいとき。それがビジネス上のものであったり、理路整然としたことなら別だが(僕は元来、理屈っぽいことは、考えるのも説明するのも得意なほうなのだ。)それを抽象化したり、過去のできごとを披露したりするとき「うまく言葉が出てこないな」と感じることが最近多い。


こうなった原因として、考えられるものが一つある。それは僕が「謙虚でありたい」と(もしかしたら必要以上に)考えていること。僕は、傲慢な態度や、傲慢さから視野が狭くなること、傲慢さで人を傷つけること、人を振り回すことが大嫌いなのだ。(でもこの話は長くなるので、また別の機会に。)


「説明できないならそれでいいじゃないか。説明する必要はない。」という考え方もある。というか僕はその考え方を支持している。うまく説明できないことは、それは言葉にできないことなんだ。言葉っていう道具は、あんがい不完全で未熟なものなんだ。だから、音楽とか絵画とか小説とかがあるんだよ。という考え方。そう思う。


だけど、じゃあ僕はそれでいいのかな。うまく説明できないことは諦めて、片隅に放置しといていいのかな。
前のエントリでも書いたけど、入れたものは同じ熱量だけ出力しないと、健全ではないと思い始めた。そうしないと、溜めたものが中で腐って、濁って、固まりついてしまうようなイメージ。そして、今の僕は、その濁ったドロドロがかなり体内に残っている気がする。
もっと端的に言うと、最近「脳ミソが腐って」きている気がしてならない。ドロドロが思考の邪魔をして、昔みたいにトップギアで思考が回転しない。エンジンオイルが古いエンジンになってしまったような感覚。


普通の人はこんなこと考えないで、日頃からワイワイ喋って表に出しているんだろうけど。
村上春樹いわく、
「僕は何事によらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。」
村上春樹を敬愛して人生の半分を過ごしてきたから、ぼくもそういう「タイプの人間」になってしまったのかもしれない。
村上春樹みたいに「物語」に昇華させる技術はないけど、まずはこのブログで、拙いながら書いていこうと思う。


とりあえず熱量を出力して、脳ミソのドロドロを排除して、クリーンな思考回路とトップギアの回転速度を取り戻すこと。これがこのブログの、目下のところの目的。
平たく言うと、脳ミソのデトックスです。


もしこの記事を読んでくれている人がいたら、
「こんな個人的なデトックスにつき合わせちゃって申し訳ない」
とホント思います。。。まぁいいよね。